新・じゃのめ見聞録  No.17

山本覚馬の『百一新論』の出版の不思議

2014.5.13 

  山本覚馬が最も影響を受けたのは、幕府から二年間、オランダ、フランスに派遣され帰ってきた西周(にしあまね)でした。彼は江戸の横浜に1865(慶応元年12月)着き、翌年1866には、京都に移った将軍、慶喜に招かれ京都市内に移り、『万国公法』を訳します。そして慶喜にそれを講義することになります。次の年1867(慶応3)、2月四条大宮に洋学の塾を開きます。西周39歳。この時に山本覚馬は西周に出会います。覚馬40歳。彼はこの時、「万国公法」という国際法の話を聞き、きっと天地がひっくり返るほどびっくりしたのではないかと思われます。この塾には、会津藩、桑名藩、福井藩、松山藩など、500名ほどの藩士が集まったとされています。

 この年の11月に塾生が集団で40人前後塾を辞めると言い出し、覚馬が仲介に入って塾生を戻したことが、西周の夫人の日記に、次のように記録されています。

 

 1129日 天気

  今朝御登城前、山本覚馬様御出にて、塾生の事聞きおよびし故、かれらの所へ参り、いろいろ承りしに、誠に取るにたらぬ事故、よくよく自分が申ました所、先生のおゆるしがあれば帰るとのこと事故、不都合段ゆるしくれと御申にて聞すこととなりたり。

 晦日 晴たり

  今日塾生またまたがらがらと帰り来りたり

       「翻刻 西升子日記(下の一)」『學苑717号』昭和女子大学 近代文化研究所2000

 

 なぜ塾生がそんなことをしたのか、理由ははっきりはわかりませんが、西周の世話をする米という女性に対して塾生が不満を持ったことが原因だったと川嶋保良『西周夫人 升子の日記』青蛙房2001に説明があります。ともあれ、西周の夫人は、わざわざ日記に山本覚馬の名前を記して、いざこざを収めてもらったことを書いているわけですから、覚馬はこの時に西周家と通常以上の関わりを持っていたのではないかと思われます。

 

 問題は、ここからですが、この出来事の二週間後の1212日に将軍は京都を離れ大阪へ向かいます。そして西周も1222日に大阪へ向かいます。この時覚馬は京都にとどまります。そしてわずか1週間後、つまり翌年の1868年(慶応413日、鳥羽伏見の戦いがはじまり、覚馬は捕らえられ、薩摩藩邸に幽閉されることになります。西周と別れて数週間後のことでした。

 こういう経過を踏まえると、西周が京都へ来て洋塾を開いたのが2月でしたので、わずか10ヶ月ほどの間のつきあいだったことが分かります。しかしその間に「万国公法」の講義を受け、そして何よりも問題となる『百一新論』の話を聞くことになるのです。問題は、この『百一新論』の講義を、塾生達はどうしたのかということです。日本で最初に「哲学」という言葉を使ったとされる最も有名な『百一新論』は、この京都で講義されたことははっきりしています。その事実ははっきりしているのですが、この書物は山本覚馬によって明治7年にはじめて出版されることになります。それも事実としてはっきりしているのですが、でもそのいきさつが、何とも言えず不可思議なのです。

 私たちは西周のこの『百一新論』を、『日本の名著 西周・加藤弘之』中央公論社1984で早くから読むことが出来ていました。しかし、そこには、この本の成立事情については何も書かれてはいませんでした。ですから、中央公論社版で『百一新論』を読んだ人は、こういう本を西周が自分で書いて出版していたのだときっと思っていただろうと思われます。しかし、今ではもちろんよく知られていることなのですが、西周の自筆原稿として残されている『百一新論』は存在しないのです。元会津藩士であった山本覚馬が序文を書き、南摩綱紀(なんまつなのり)と共に、西周に出版許可を貰いに行って出版の運びとなったもの、とまでは理解されてきています。

 しかし、日本の哲学の出発点となったこの有名な出版物が、誠に不明瞭な形で出版されることになったいきさつは、決して誰もまだ解き明かしているわけではないのです。覚馬の序文付きの『百一新論』は、松本健一『山本覚馬 付・西周『百一新論』』中公文庫2013で見ることができます。しかし松本健一氏は、明治になってこの本が覚馬の手によって京都で出版されたことは指摘していても、なぜこの本が覚馬の手元にあったのかをうまく説明できているわけではありません。彼は、「おそらく、山本覚馬は幕末における西周との交流を通して、その『百一新論』の稿本をゆずり受けた」と書いていました。おそらく、と書いているので憶測です。

 鈴木由紀子氏も『ラストサムライ山本覚馬』NHK出版2012で、「西は大政奉還した慶喜にしたがって大阪に退去する祭に、稿本を覚馬にたくした。幕末の動乱にのさなかにあって、覚馬はそれを片時も離さず大切に保管していたのである」と書いていました。何を根拠にそういうことを言っておられるのか分かりませんが、もしもそうだとしたら、二つのことが疑問に残ります。一つは自筆の稿本が少なくとも、幕末の京都にはあったという事です。西周が そういう原稿を作っていたという事になります。しかし実際には、原稿はもとより、草稿すらも残っているわけではないのです。もう一つは、西周と別れた覚馬は、12月の年明けには薩摩藩にすでに捕らえられ幽閉されているわけで、そんなときに幕府側の重要な人物であった西周の本を牢屋の中でどうして「片時も離さず大切に保管していた」といえるのか、ということです。

 

  清水多吉『西周』ミネルヴァ書房2010では、この辺の事情についてこう書いていました。

  「洋学塾では、おそらく蘭語、英語が教えられ、その上で西欧の諸学の基礎が講じられたのであろう。わずか数ヶ月ではあったが、西周助のここでの授業内容の一つが『百一新論』であった。ただし、慶応三年のこの時の西周助自身の講義録は、以後の鳥羽伏見の戦いの中で散逸してしまったらしい。この時の受講生の中にかなり目の不自由な会津藩士山本覚馬と山本よりやや年長の南摩羽峰(名は綱紀)という人物がいた。彼らは、明治六年になって東京の西宅を訪ね、自分たちの速記録を西に提示し、手を入れてもらい、山本の場合はみずから序文を書いて出版した。これが現存する『百一新論』である。」

 

  つまり『百一新論』は、山本覚馬や南摩綱紀、他にも会津藩の聴講生がいたでしょうから、その者たちによる「速記録」を作っていて、それを明治6年に西周に見せて出版許可を貰っていたというのです。「自筆の稿本」と「速記録」とではえらい違いがあります。しかし、清水多吉氏が言われる「速記録」だったという根拠も、どこにあるのかよくはわかりません。もし清水氏の言われるような「速記録」が覚馬たち受講生に残されていて、それを持って明治6年に上京し、西周に見せたとしたら、西はそれにきっと手を入れたはずなのです。でも、そんな校正本も残されていないのです。

 森鴎外の『西周伝』岩波書店1954にも、この本の出版事情については何も記されてはいません。『西周全集 第一巻』宗高書房1960の「解説」にも、覚馬が何度も上京し西に会っていたことは書かれてはいますし、、自筆原稿が存在しないことや山本覚馬覚が出版することになった事実は書かれてはいても、原稿の存在しないことへの追求はなされていないのです。

  何ともまか不思議な書物が残されたものです。そして書物の内容というか、文体がこれまた、何とも言えず不思議な「ござる」調の文体で出来ています。もしこの文体が「速記」であれば、あるだけ、それだけで研究の対象になりますし(哲学の本で「ござる」調の本などはこの本が最初で最後でしょうし)、本人がもし書いたのだとしたら、なぜ幕末の動乱期にそんな文体で書けたのかが、これまた大きな研究の対象になるでしょう。

 そしてさらには「内容」の問題です。ここには覚馬が惚れ込んだある思想的な境地が書かれているからです。それは「法」と「教」をはっきりと分けて考えようとする西洋独特の考え方への関心、そして「百」という「百科全書」的な全方位視点への関心、そういうものに身近に覚馬は触れてしまったのです。大事な事は、もしこの思想を記録した自筆の稿本なり、塾生の速記本等があったとして、それを持って山本覚馬が薩摩屋敷に幽閉されたとしたら、その薩摩屋敷で書かれることになる(といっても口述筆記ですが)覚馬の「建白」が、まさに「百科全書」的なものであることを思えば、『百一新論』と『建白』との深い関係を考えてみないわけにはゆかなくなります。しかし、そういう研究もまだはじまりの位置にすら立っていないような感じもします。

 ちなみにいえば、知識を広く自由に学ぶ分野を「百科全書」的なものと考える(西周はそれを「百学連環」と呼んでいます)と、そういう広い知識の学びを「リベラル・アーツ」と同志社は考えてきて、教育の柱の一つに据えてきていますが、そもそも、この「リベラル・アーツ」をとても大事なものと考え、それに日本語の「藝術」という訳語を考えたのも西周でした(『日本近代思想大系 科学と技術』岩波書店1989に西の「百学連環」が収められています)。

  このようにこの『百一新論』には、覚馬が新島襄と出会うための、思想的な準備をしてくれていたところがあったのですが、なぜか同志社でもこの本への言及は十分なされてされてきたわけではありません。おそらく、正面からこの『百一新論』を扱っているのは、桑木厳翼『日本哲学の黎明期』書肆心水2008や、蓮沼啓介『西周に於ける哲学の成立』有斐閣1987でしょうが、『百一新論』の成立過程の解明は不明のままです。蓮沼啓介氏は、この本は弟子によって初めて残されるような性質を持った本なのだという独特な主張をされていますが、しかしもしどこからか自筆の原稿やメモが発見されるようなことが起これば、覆ってしまう説にもなっています。

 

 蛇足になりますが、もう一つだけ奇妙なことを書いておかなくてはなりません。それははじめて『西周哲学著作集』岩波書店1933を刊行した麻生義輝氏が、のちに『近世日本哲学史』1942を書いていて、その中で「明治68月官許、明治73月彫成、安藤覚馬の蔵刊にて刊行せられた。安藤覚馬なる者は会津藩の人であった。(略)安藤覚馬の取りなしで(略)」という奇妙な文章を書いているところに出くわしたときでした。誤記とも考えられるのですが、著作集を刊行した編者なのですから、単純な誤記をしているとも思えませんし、三箇所とも同じ間違いをして、校正の時もそのままで通しているというのは、確信を持って、山本覚馬を安藤覚馬と書いているとしか思われないところがみられるのです。それを見たときはエエッと絶句してしまいました。ひょっとしたら、安藤覚馬とサインされた稿本があって、それを麻生義輝氏が見ていたのではないかというくらい気持ち悪くなる誤字?の文章でした。これが簡単に誤字で済ますことが出来ないほどに、この本の成立事情は謎に包まれているということなんだと考えるべきなのかもしれません。